国語の現代文の入試問題を解いているとき、
「ホンマそれな!!」
と思うときがよくある。
今回は、今の自分にピッタリ、そして同世代、はたまた親世代にピッタリで、激しく同感、共感したので書いて行こうかなと思います。
書籍は、
大庭みな子氏の、
『女の男性論』
「他人の眼」
は2つの意味を与えることができる。
1つは、
「自分はへんなことをしているのではないか?」
「笑われるのではないか?」
「出過ぎているのではないか?」
という、一種の卑屈さを伴った、恐れともいうべき意識です。
もう1つは、
論理を追って自己の立場を認識した上での、自己を対象化する「他人の眼」です。
前者、後者、どちらが正しそうかと聞かれれば、なんとなく後者ですよね。
最近、
「若者たちは他人のことを考えない」
「他人の眼を意識しない」
ということが、大人たちの批判の声としてよく聞かれます。
この場合、大人たちの批判の多くは、自分たちの過ごしてきた青春時代の青年像とはあまりにも違う現代の気ままな若者たちの姿に、かつて抑圧された、常に他人の眼を意識しなければならなかった、屈辱にあふれた自己の青春の像を重ねてつぶやく、悔恨の羨望と嫉妬の混じり合ったものが多い。
これに対して、もう1つの意味の他人の眼は、
「自己を世界の中で客観視する能力」
を意味し、自分自身を他人の眼で眺めることです。
第1の意味での他人の眼、つまり、
「みっともない」とか、「恥をかく」とか、
常に他人の価値判断を基準として自分を律していく他律的な習性は、中年以上、戦争以前に青春を送った世代の多くの人たちに、いやというほど身についてしまっています。
社会の中で安全であるためには、人の中で決して目立ってはならない。同じように目立たない、良くも悪くもない、自己主張しないことが賢い処世術だったのです。
日本の今までの子供のしつけかたは、こういう考えを親たちは子供たちに植え付けることで、子供たちに社会教育をしたと思い込みます。
この感覚は歴史的に、江戸時代から、身分制度という秩序の中で生まれたもので、
人びとは、もはやありのままの姿というよりは、世間の眼でコントロールされた自分の在り方で一生を送らなければならなくなります。
「悪いことをするとお巡りさんがきますよ」
「先生に言いつけるぞ」
といった脅し文句は、
自分自身に権威のないものが、他の権威を利用するいかにもずるいやり方です。
こうした他律的な脅し文句は、自律的な自己抑制の能力をなくしてしまい、実態の妖しげな権威によってのみ自己を判断する習性となって、人々の間に定着しました。
何か悪いことをすると、お父さんや、お巡りさん、先生などに叱られる、ということでその行為をつつしまされてきた人間は、
その「他人の眼」さえあたりに見当たらなければ、何をしても良いことになるので、
第2の意味の自己の内部にある「他人の眼」で自分を律することはできません。
親や教師の前で神妙にしている子供は、ほんとうの仲間、つまり真の意味での社会では人気がないことが多いが、
これは第1の「他人の眼」だけを気にして、
第2の「他人の眼」を持つことを忘れた親たちによって育てられた子供なのです。
大人たちが持たなければいけない「他人の眼」とは、
自己を測る客観的尺度としての他人の眼です。
「自分が世界の中でどのような位置に置かれているのか?」
いわば、1人の人間の真のアイデンティティ、人格にも連なる他人の眼をみんなが持つことです。
心ない他人の眼を恐れる必要もないし、そうした他人の眼のゆえに自分を卑屈する必要もないが、
鏡に映し出された自分の姿をはっきりと正視する他人の眼を自分自身の中に持つことである。
はい。
最高やなと思いました。
これを親世代の人が書いていることに意味があると思ってます。
若者がこんなことを書いても、親世代はそんなことを認めたくないですし、批判をくらうと思います。
ぼくは、
「大人たちの若者に対しての多くの批判が、屈辱にあふれた自己の青春の像を重ね合わせてつぶやく、悔恨と羨望と嫉妬のの混じり合ったものが多い。」
というところが、まさに、と思いました。
批判する人は、自分のことを棚に上げて批判することが多い。
特に、ネットでの匿名の批判。アンチですね。
こんなことを言われるともっと腹をたてるかもしれませんが、そもそも批判しかない世界に成長はありません。
たしかに、
「やりたいことをやる」
という場合は、
自己の内部に、自分を客観的に見て、自分を律する「他人の眼」が必要だと思います。
誰しも完璧ではないので、全てが正しいとは限りませんが、他人の価値判断を基準として生きるのは違う。
すぐにはできませんが、
自分を測る客観的尺度としての他人の眼を持とう。